みんな好きだし嫌いだし、みんな好きですね

 

 

あくまで自分の可能な範囲でのコミュニケーション力の中でだが、

相手の反応をあらかじめ想像した上で発言することが多くなった。

失言をしなくなった(あくまで自分の中でだが)、

相手がどんなことを言えば喜ぶのか、恥ずかしがるのか、悲しむのか。

なんとなくわかってしまうような気がしてあまり良くない気がする。

 

ずっと人に媚びているような、自分が本当は何を望んでどうしたいのかよくわからなくなったりする。

でも別に無理やり好かれようとかしているわけではなく、しんどいわけでもない。

むしろ昔より素直になったような気さえするけど、

結局は自分のことを褒めてくれたりよくしてくれる人や、

ただ優しい人に擦り寄っているに過ぎないんだろうな。

ここ最近はずっとなんだか寂しくて、珍しく人と一緒にいたいと思う。冬のせいだね、

最近男に、男たらしだよなーと言われたけどきっと昔からそうなのでなんとも思わない、やっぱそうなんだな。

告白されたいとかモテたいとかじゃないんだけどなあ。

本体と精神をもっと引っつけないとあとあと困るんだからしっかりしろ。

 

 

基本的に人が好きで、すぐ信用する。

みんなのことが好きなので、本当に好きなのがどれかよくわからなくなる。

嫌いになるより好きになる方がノイズが少なくて楽なので、

みんなに好きだと言いまくっていたら最近また困ったことになりかけたのでよくない。

自分でははっきりと「好き」の種類がいくつかあるんだけど、他人にはわかりにくいし。

でも、手がかりとしては、

「好きなんだけど、〜〜。」とかはダメで、

「〜〜だけど、好き」っていうのは信用してもいい。

あと、自分が口にしたくない言葉をさらっと言っちゃう人もダメだ。

そういう判断基準の上で好きな人は何人もいて、

男だったり女だったりぼちぼちだけど

恋愛感情の好きについてはイマイチ掴めないまま、

それでもなんだか恋がしたいなあとはずっと思っていたのだけど。

でもなんとなく最近それにも答えのようなものが見えている。

 

きになる人が二人いて、二人それぞれとご飯に行って同じような感想を抱いて、

私のことを好いてくれているとわかった方と少し距離を詰めてみたけどダメな気がしたのは

なんとなく芽生えた違和感を表面的な利益で誤魔化そうとしていたから。

行き過ぎずに早く気づけて偉いねー、ちゃんとしっかりケアして逃げましょうね。

 

かっこいいとか知識が豊富だとか、自分にとってわかりやすい利益が望めるものに目が行きがちだけど

そういうものがあるからといって飛び込んでみるのはダメですね、もう大人だし!

でも過去に恐れて自分の判断を全く信用しないのも苦しいし、、

面食いだけどもうなんか怖いから信用できそうなかっこよくない人選んでみるとか、そういうのはよくない気がするね。

 

 

いい恋とは、自分の言葉と相手の言葉を合わせたときに

生まれる色というか空気というか熱というか、

そういうのを気分良く纏えるか、みたいな感じなのかな〜と思った。知らんけど。

 

 

自分のことを好きな人のこと好きなのは当たり前だけど

自分のどこを好きになってくれているのかって、わかるじゃん。

顔なのか反応なのか行動なのか使いやすさなのか。

自分の操作が含まれてるところを好かれてもイマイチスッキリしないんだよね。

自分が思ってもみないところを褒めてくれたり肯定されちゃうと一気に好きになっちゃうな。。

 

 

1失敗につき100内省を続けてきた成果が実ったのか、

人間関係で心が荒れる機会は減ったけど同時に刺激もない。

こんな時は爆弾をぶつけられたくなってしまうけど、

煙で視界が霞んでその隙に大事なものを見失いそうだから、

お互いのパーツを交換するような関係を増やしたい。

 

 

何も考えずに呑気に過ごしている人間を

生きやすそうでええですなあとか、そんな感じで見てきて、

怠惰だな、人生イージーなんだろうなとかそんなことをよく思う日々が続いていたけど

幸せになれるように、過ごしやすくなるように努力することを考えるのをやめて

不幸やネガティブに流される方が怠惰なんだということを

とある地下アイドルが言ってて、あーほんとそうだなと思った。

全部他人のせいにするのは論外だけど、自分のせいにすると時々それを使って

人を落とそうとするからそれもダメ。んーバランスう

 

 

 

 

 

しょぼいショッピングモールがすきだ

 

 

しょぼいショッピングモールがすきだ。

時々、地下とかにあるフードコートで雑な安いご飯を一人で食べにいったり、

あてもなくふらふら見て回ったりする。

隅っこにあるよくわからない異常に安い中華とか、

安定の丸亀製麺とか銀だことか、

その中で食べたいものを気分で選んで

呼び出しのベルを持って待つ時間とか。

あのベル、ちょうどいい音量だった試しがないな。やたらでかいから恥ずかしい。

 

食べたあと、雑貨屋とか服屋をぼんやり眺める。

ベンチでうなだれている男子高校生とか

めちゃくちゃ太ったおばさんとか、親子とかを見ていると

飾っていない人々の生活が見えるようで安心してしまう。

 

 

 

私の地元は徳島県で、その中の比較的便利で人の多い所に住んでいた。

小学校の時とかは友達とそういうショッピングモールにいって、

(地元ではフジグランとかゆめタウンです)

プリを撮ったり、安いギャル系の服屋さんを見て回るのが至高だったんだと思う。

ファンシー雑貨のお店で買ったバッグとか、

ステーショナリーとかが大好きだったな、パリスキッズのヘアアクセとか。

高校生ぐらいになると学校が市内だったから、

そこらへんまで汽車で行って遊ぶようになった。

地元に私が欲しいものはほとんどなかったから、服もほとんど通販とかで買ってたな。

 

それでも、家族とたまにしょぼいショッピングモールに行って

ダサいダサい何もないと文句を言いながら、一緒にフードコートでご飯を食べていた。

映画館もそこにしかなかったし。

 

 

 

京都にきて一人暮らしをして

怖いものや寂しいことなんてなかった。

きっと、恋愛とか新しいこととか、

わかりやすくキラキラしたものに夢中だったんだと思う。

今になってこんなに地元の、どこまでも遅くて、頑張らなくて、

色褪せていて、どうしても好きになれなかったあの空気を

京都に来てまで一人で求めるようになると思わなかったな。

 

キラキラや、熱量を持った出来事はいつかほどけて冷める。

そこで残ったものは過去の蓄積でしかなく

20歳の私の過去の17年分は徳島の記憶であるのだから、

当然と言えば当然なんだけど。

 

ああきっと、はじめに何もなさすぎて、

満足してしまっているんだろうか。そうなんだろうな。

ハングリー精神も特にないし、

ぬるま湯はぐらいでちょうどいいのかもしれない。

それではダメだと思い続けたまま、進むのかなあ。

ただ毎日を、ふわふわと生きている。

焦りも悲しみも、あるようなフリをしているだけな気がする。

 

 

私の欲しいものはなんだったんだろう。

派手な服も、おしゃれなカフェも、かっこいい人も

もうあるけどないような、ないけどある、いらない気もする。

アーティストは大阪にさえくれば行ける。

憧れの人のLINEを持ってる。

あの歌人とも写真を撮れたし、モデルさんも見た。

東京のあのお店にももう行った。zipperは休刊した。

 

自分の人生の全てだと思っていたものは別にそうでもなく、

まだ見えない未来によってそれらの割合はどんどん小さくなっていく。

人間が関わるものは全てナマだ、永遠だと思っていたものはどんどん終わっていく。

 

自分を支えてくれていたあらゆる人や文化がなくなると、

過去すらも嘘みたいな気分になってしまう。だってもう見えないのだから。

自分の記憶と心の中にあるものを信じて、みんな一人で生きていくのだと、

それが大人になるということだとなんとなく、静かにわかってしまってから

人生はなんて遥かで長くてさみしいのだろうと思った。

 

きっと、仕事をして、家族なんかもできたら

こんなことを考える暇もなくて、というか忘れるんだろうなと思う。

早く忘れたいなあ、だって忘れないと、目をそらさないとやっていけないから。

 

人間はどこに行っても、自分だけにしかわからない過去の片鱗を見出して、

それに依ってコマを進めていくしかないんだな。

 

しょぼいショッピングモールに入っているサンマルク

ぱちぱちとこの文章を弾いている。

 

カフェラテの泡が厚くて気持ち悪い。

そんな欠陥にすら安心するのは

余裕があるからなのか、ないからなのかもわからないね

 

 

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カヌレと、デザインのそれでもと

 

 

ここしばらく数ヶ月はグラフィックみたいなものを製作する意欲が果てしなくゼロだったのだけど、

今日ふとなんとなく意味のないものを作りたくなって、カヌレを描いた。

 

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いつも成果物だけを見ると絵として成立しているような気持ちになってしまい自分の能力を過信してしまうが、

そもそも私は絵が描けないのですんなり完成するわけではない。いつもそのことを忘れそうになってしまうので危ない。

 

このカヌレだって、描こうと思い立ってから下絵の段階で1〜2時間はカヌレの写真とのにらめっこからだ。

観察が感覚的にできないため、どこから描いていいかわからないのだ。

 

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いつも作業の始まりは本気でこのレベルである。絵が描けない人のタッチだ。

ずっと「気持ち悪いな」と思いながらひらすらカヌレを描いていた。

見たものをそのまま描くことほど難しいことはない。

ここが今まで絵をきちんと描いてきた人とそうでなかった人の大きな差である。

 

それでもとりあえずカヌレを描きまくる。

かわいいカヌレを描きたいという強い意思があるからだ。

 

 

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途中で『さらっと描けもしないのに補助線を引かない』という初歩的なミスを犯していることに気づき、一気に描きやすくなった。

ある程度形が安定してきてお気に入りのカヌレが描けたら、下絵を取り込んでソフト上で描画する。

 

ここからもまた大きな壁が立ちはだかる。

パスの線画のカヌレをどう色付けしたらいいかわからない。

またカヌレの画像とのにらめっこが始まる。次の観察対象は陰影と質感である。

色はいくらでも後から変えられるが、この二つの要素は着色の段階でふさわしいブラシを選び、丁寧にタッチしていく必要がある。

レイヤーをきちんと分けながらやればやり直しもきくので下絵ほどは苦労しないが、

カヌレは形や色が意外と地味なのでイラスト映えしない。デコラティブな要素がかなりそぎ落とされたスイーツである。

ゆえに質感が命なのだ。

 

そんなこんなで、たった一つのカヌレのイラストに3時間ぐらい、

そこから背景色や画面に対するカヌレの大きさを調整していると

結局トータルで4時間ぐらいかかってしまった。

相変わらずの非効率さというか、能力の低さに悲しくなるが

人様に晒そうと思えるぐらいには納得できるものができたし、

学びも多かったし、なにより楽しかったのでよしとする。

次からはもっとはやくから補助線を引きたい。

 

 

カヌレの絵はただの遊びだけど、

この絵の下絵の初めの方みたいな惨劇がデザインの仕事を引き受けた時も毎回起きるのは辛い。

まあ練習してどうにかなるものでもないし

ここから雲を抜けて作業が加速し始める瞬間がデザインをしていて一番楽しいときだからいいのだけど。

 

私は美大生でも専門学生でもなければ理系の普通の大学生で

デザインを専攻しているわけでもなく全て感覚的にやっているので、

今は自分の能力に自信がないこととや第三者の客観的な意見を貰えない環境のまま仕事が成立していることに、

初めて依頼を貰った2年ぐらい前からずっと怯えている。

第一は私とクライアントが納得できるものを作ることなので、そこに妥協がなければいいんだけど。

納品物としてではなく、私自身の作品としての自信をもっと持てるようになりたいんだよな。

 

一時期はデザインについて考えたり仕事受けるのも嫌になって離れていたけど

遺伝子レベルでデザインが好きというか、かわいいものが好きみたいな

そういうのからはどうにも離れられないっぽいな。

絵は描けないわ自己評価は低いわ、でも、

それでもやっぱりデザインしたいんだよなー、と最近思う。

 

あくまでデザインなので、自分以外の何か目的があってそこに向かっていくという意味では

自己表現を目的にしているアートとは違っていて、私はアーティストにはなれないなと思う。憧れではある。

 



もう何について喋ってるのかわからないのでここら辺にしとこ〜。

私にもこれだけ言いたいことが溢れるぐらい好きなんだなと思えるものがあってよかったよ

 

 

 



 

 

 

 

 

車窓より

 


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どうしても手放せないZINEがひとつだけあって

確か名前は、「landscape by the window」

京都の小さなイベントでなんとなく買った6ページぐらいの写真集で

電車かなにかの窓から撮った風景の写真がただ並んでいるだけのもの

 

 

東京と京都の往復は新幹線で、いつも車窓を眺めている。

私は空を眺めるのが好きだ。

お母さんいわく、小さい頃からよく窓の外を眺めてていたらしい。

 

ポエマーみたいだが、

空は二度と同じ表情にならなくて見ていて飽きないのでいい。

雲はいくつもの層になっていて、その層ごとに光の色や強さも違う。

動く速さも違う。

"ほんとうに"  地球が球体だと思ってしまう。

見たこともないのに

 

 

 

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東京にいく理由

 

 

東京にいる。

年に3回ぐらいは東京に遊びに行ってて、

いつもそんなに何をしに行くのかと尋ねられるが別に何もしていない。

私と定期的に喋りたいらしい人がいるのでその人に会いに行って、

その人の予定に合わせてイベントとか調べたりして、

あとはまあせっかく来たしな〜ということでブラブラしている。

毎回いろんなところに行くものの友達がいないので寂しくなって、疲れて帰るのがおきまりのパターンである。

 

今回は前回までと違って、自意識過剰が改善したおかげで大体のお店には一人で入れるようになったし

グーグルマップに張り付かなくても歩ける余裕が出ていたので

いつもよりは自由にのびのび過ごせていると思う。

 

そういう状態で東京を歩いて思ったことは、

まあ薄々感じてはいたけど、別に何もないなということである。

 

徳島で生まれて18年間過ごした田舎暮らしの私にとっては東京は憧れの街だった。

中学の同級生たちと馴染めず、居心地が悪くて辛かった時期に

私がハマったのは原宿のファッションだった。

zipperやFRUiTといった雑誌を貪るように読み

ヤフオクでNADIAやキャンスパの服を毎日のように見漁り、

時にはリサイクルショップで奇跡的に入手したangelic prettyのロリィタ服を着てお母さんの隣を歩いた。

 

原宿のそういうブームが去ると同時に私もだんだんとそのようなファッションへの興味は薄れていたけど、

人生で影響を受けたものとして一番に言えることはその当時の原宿ファッションだと思うし、

形は変われど今もまだ、

その頃に感じたときめきやファッションへのこだわりは間違いなく生き続けている。

 

だからこそ、東京への憧れや漠然とした幻想みたいなのがいつまでも拭えないのは仕方ないのだと思う。

周りの人や東京に住む人からはずっと、「東京なんて別になにもないよ」といっていたけど、

わかっちゃいるけどそう思いたくなかった。

 

大学生になって京都に来てからも、早く東京に行きたいとずっと思っていた。

大学を京都にしたのは高校生の私なりのいろんな理由があって、

その選択は今ではむしろよかったと思ってはいるが、後悔した時期も多々あった。

 

田舎独特の閉塞感、変わり映えしない街と人、

新しいものが好きな私にとってはそれがとにかく怖かったのだと思う。

京都は京都で独自の文化があって、面白い取り組みや人もいて、かつ住みやすくて今では大好きでたまらない場所となった。

それでもやっぱり、東京に行く選択肢が消えたことは一度もなかった。

 

 

 

でも、今回東京をひとりでいくらか回って、

会っていろんな話して、なんとなく

「ああ、もう私は東京じゃなくてもよくなってしまったんだな」と思った。

東京という街に価値を求める時代は私の中で終わったのだ。

 

別に悲しくはない。

むしろ、東京に浮足立ちながら就職して失望してしまうよりよっぽど幸福な気づきだったと思う。

 

結局、どこにいても人は人、自分は自分。

環境が人に影響を与えるのは事実だが、変化を求めて環境を変えるだけではなにも生まれない。

場所を変えるというよりは、「コミュニティを選ぶ」という感覚が一番大事だ。

 

新しいものが入り込みやすい場所、自分にとって重要な人と出会う確率が高くなる場所、仕事がある場所、

これからの私にとっては、東京とはそういう場所なのだ。

 

就職してからそれがあまり達成されてないと感じたら、多分私はすぐに場所を移すだろう。京都に戻りさえするかもしれない。

それでいいのだ。

 

 

これから先、住みたい場所を探すという理由で旅行をする機会が増えそうだな。はやく海外にも行ってみたいなー

 

でもやっぱ、ちょっとさみしいな

 

 

 

手間を愛せない自分は嫌いじゃない

 

 

コーヒーの豆をミルで挽いてフィルターにお湯を注ぎ、

毎朝自分で淹れたコーヒーを嗜める人はかっこいいと思う。

 

 

出汁をとるのかほんだしを使うのか

生姜はチューブかすりおろすのか

めんつゆは買わずに手作りするのか

 

 

私はいわゆる”ちょっと生活にこだわりを持ってる人”になろうとしていた。

で、とりあえずそういう人たちを片っ端から真似をしてみた。

でも実際やってみて思ったことは、コーヒーも出汁もそうだけど、

手間を愛せないと無理だなと思って続かなかった。

それに気づくと同時に、自分が本当は死ぬほど面倒くさがりで

いろんなものをいい感じに扱うのが死ぬほど下手だということもわかった。

 

私の生活は、

ご飯は楽してそれなりにおいしければ満足だし、

毎日ぱぱっと化粧がいい感じに決まって、

安く可愛い服が手に入れられるのが一番嬉しいのだ。

つまり、最高に庶民的なのだ。

 

 

私は服が大好きで、かつてはいろんな服を増やしていた。

ブランドや最新ファッションに興味があるというよりは、

自分に似合う服を探して組み合わせ、着飾ることが好きだ。

 

ただ、本当に持っている服を満遍なく扱えていたかと言われるとそうではない。

だから、本当に大事で大切で破れたら泣いて修理にだす!!!ぐらいのレベルの服以外を全て手放してみた。

 

実際それで生活してみたが、驚くほどに何も困らず、

むしろ服を選ぶ時間を取らずにいつも最高に好きな服だけを着られて満足なのだ。

これで服代はかからない。今ある服を大事にすればいいだけ。めんどくさくない。

 

こういう感じで、

『今まで「自分はこうじゃないとダメだ」と思ってたことが

意外とそうじゃなくてもいけちゃう』発見はめちゃくちゃ楽しい。

そういうのを日々の生活の中で積み重ねていく中で、

本当に譲れないこだわりが生まれていく気がする。

 

夏休みが始まってからこういうことを考えて暮らしてみて

1ヶ月で気づいたことを思いつくままあげてみる

 

 

<外見を飾ることについて>

・追う価値のあるブランドは現段階でzuccaのみ

・服に1万以上出さなくていい

・髪型は黒髪ぱっつんロング、ただし綺麗に保つ

・ネイルしてもそんなにテンション上がらないからしなくていい

・アクセサリーはつけなくていい、ピアスも付け替えない

・バッグ2〜3つあればいい

・口紅は赤2種類だけでいい、ただし色味は死ぬほどこだわって選ぶ

・アイメイクは二重にするのと下まぶたのキラキラ

 

<食事>

・食べてる時が一番幸せ

・なんやかんやで和食が好き

・朝ごはんは少しだけ食べた方がいい

・米の方が好きだけど米だけも無理

・雑味のあるものが好き

・家のご飯が落ち着く

 

<人間関係>

・1日中人と遊んだら次の日は基本的に何もできない

・3日連続で人と会うと寝込む

・バイトが存在しているだけで気持ちが終わるのでできるだけ入れない

 

<その他>

・ものを選ぶとき一番重視するべきはデザインだが、買わない理由が機能性だった場合は買わない方がいい

・インテリアはとりあえずIKEAを覗けば大体解決する

・貧乏性なので悩んでるなら高いものは買わない方がいい

・楽しくないと本当に何もできない

・変化に柔軟だがすぐ飽きる

・結局デザインするのめっちゃ楽しい

 

 

身の丈がわかる。

これが私で素がこれで嫌いじゃない。

無意識の見栄を張らなくていいので楽になったし、

これから頑張りたいことを頑張れる土台が整いつつある。

8月は大成功だったね〜

 

 

9月は本番、継続しつつ、

慣れに生じた余裕へ未来的要素を追加するのじゃよ!

ふぁい!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8.5月

 

 

pm 11:02

 

今日も30ℓのゴミ袋を二つだす。

断捨離は一度勢いがつくとどんどん進むので楽しい。

物を捨てていくたびに、本当に大事なものってほとんどないなと思う。

笑っちゃうぐらいのどうでもいいものがゴミ袋に放り込まれているのをみると

面白いような、少し寂しいような気持ちになる。

 

今日は、昔に買った絵と、

大学に入ってから集めていたフライヤーを全部捨てた。

デザインの勉強や参考にするために集めていたけれど、

見返したことなかったなそういえば、と思い捨てた。

 

絵も、好みではあるけれどなんとなくいらないな、と思い捨てた。

 

もともと物を捨てることにそれほど抵抗がない。

だから、物を捨てられない人の気持ちに共感しにくいのだが、

さっき私が行った「少し寂しい」の部分がとてつもなくデカかったりするんだろうか。

そういう人たちは、ゴミを処理場まで持って行かれて燃やされる直前にいたとしても

死ぬ気で取りに行くほどのものを持っているんだろうか。

 

自分が持っているものを思い出せる数なんて限られている。

眼中から消えたらないも同然、次の日からはもう忘れてるほど我々はバカなのだ。

 

 

物に限らず、何かに依存するのはダサい。

この世の中に絶対が存在しないこと、

強いていうならば自然法則と自分しかないということに感づいた時には

人や世の中、そして自分が変わることが怖くなくなっていた。

世界の中心は自分でしかないのだ、絶対的な真理はここ・・・

 

 

最近、よく人から相談を受けたり意見を求められることが多い。

自分の意見が、その人の生活に

何かしらの意味を持つことほど嬉しいことはないな。

私自身は、最近感情を使用するイベントをできるだけ避けているので

人の話を聞くことでちょうど良い塩梅に精神が安定する。

 

 

人の話を聞けば聞くほど、

『嫌われる勇気』の

「全ての悩みは対人関係においてのみ発生する」みたいな旨の一文を思い出す。

 

「自分に自信がない」などといった、一人で完結していそうに見える悩みほど

人からの評価や過去のバッシング、社会的立場や常識など、

不特定多数の人間が潜んでいる。これも紛れもない対人関係の一つ。

そういう悩みほど、潜在的で自分では気づかないことが多いので厄介だ。

時間をかけて、ゆっくり解いていくことしか解決策がないけれど

それを手助けするのもまた他人。

私を頼ってくれる友人や大切な人たちにとって

そういうきっかけを与えられるようになれたらいいな

 

 

 

気づいたら夏が終わりかけている。

お盆を過ぎた途端、何かの合図があるのかと思うぐらいに涼しい。

秋から冬にかけての全てが好きなので、

少し調子に乗って長袖のワンピースを着たら暑くて脱いだ。

 

夏ってこんなに短かったっけ。

夏休みは始まって2週間しか立っていないけれど、もう全うした気分だ。

 

夏といえば、に続くイベントに精力的ではない性格とはいえど、

花火も祭りも行かなかったことを少し後悔している。

お盆を過ぎるとほとんどイベントはないし、

巻き返すつもりで今から手持ち花火や海に行ったりしても、

夏の終わりの部分だけが強調されてしまうのは明らかだ。

 

あと半分、どこにもいけない寂しさを

誤魔化す8と2分の1月・・・