さむい日−抽象と金平糖

最近なんとなく調子がいいのはあんまり家にいないせいなのかなあ-とぼんやり思う

/今日は嵯峨美の卒展とその前に、dddで組版の展示を見た。にしても寒い・・・

やっぱりはあ、余白と整列、グリッドシステム 罫線の魅力は果てしない。。タイポグラフィも美しく少し前はそちらの方に関心を寄せていたけれど、組版もおくゆかしい…

文字がある規則に従い並ぶ・像ができる・息を宿す

 


うー寒い、嵯峨美の卒展を見に行く。

ほとんどの部屋を回って、やはりどうしても好みの色の作品の前で足を止めがち。スキキライを抜いてモノを見ることを心がけてはいるけれど、かといって上手い下手を審査するのもまた別の話、

表現技術?手数?レイヤー数?流行?社会へのメッセージ?良し悪しとは、なんぞや…と思いながらたくさん歩く。

心惹かれた作品たちは日常に寄り添った温度感のものが多い-ただし写実ではなく誰かの偏見とか記憶のフィルターがかかった風景を見たい~あなたの抽象を見せたまえ

 


そういえばアートとデザインがうんぬんという話題が今更出てきて、学生時代にそれを一度は耳にして信じて試して破綻して疑ってということを経験してデザイナーになるんじゃねえのかと思っていたが意外とそうでもなくて驚いた。

今日の卒展を見ながらそのことを改めて考えてみた。

「アートは自分本位でデザインは相手本位」の否定派は芸術学部出身のデザイナーやアーティストつまり美術をやってた人が多くて、肯定派はデザインだけやってきた人が多いなって印象。わたしは基本否定派ってかんじ…デザイン側のポジショントークになるかもしれないけど、デザインはアートの変換作業と捉えている(私は変換前の部分が弱すぎるのだけど)。デザインは人間の内的な部分と社会のあらゆる目的との接点に位置するもの、だから自分のためか他人のためかっていうそもそもの対比が論外なのじゃ!!!!

 


話を戻して卒展の、まあふらふらと漂って絵の中の好きな部分を撮ったり撫でたりして帰った。

最近は頭に金平糖をたくさん溜め込んでいるような気持ちで人やモノや文字を見ている。ただしあまりにも溢れると手に負えなくなり辛いので、不変の抽象化・一般化の学問である数学を見て落ち着こうとしてる…こんな流れになる?と思って驚きつつどこまでやるのかはしらん、

 

(好きな人たちと好きな先生(数学)の授業を聞くのは楽しかったな、もう戻らないのだな〜ああ楽しかったな、今やったらもっと楽しいんだろうな)

1月 就活備忘録

 

就活をぼちぼち進めていくにあたってリアルタイムで感じている私自身の性格をこんな感じかなあとまとめる

 

・デザインを軸にしたいけどデザイン職人的になりたいかと言われると多分なれない(終わりとスピードが欲しい)

・↑自分なりのこだわりを持ちたくなるようなものは自分で趣味でやりたい、仕事でやるなら人のためにやりたいから

・新しいソフトとか勉強するのは結構すきなのかも

・印刷メインがいいけど本が死ぬほど好きとかじゃないし紙フェチでもない(むしろ色をあーでもないこーでもないと調整する印刷工程をめんどいと思ってしまう)

・やっぱお金はある程度は欲しいよ、グラフィックデザイナー給料低すぎる

 

 

先日少しお話をしたITサービスの会社の一次選考で、UIデザインのペーパープロトタイピングのテストがあるので、それを機会に自分が本当にDTPに従事したいのかどうかを考え直した。

やっぱり憧れというかどこかで捨てきれない部分はあるのだけど、

よく考えたらUI/UXもDTPも根幹は同じで、

情報をいかに見やすく整理するかというところから始まって、装飾的な部分で何かを盛るとか崩すとか崩さないとか、そこは私自身のセンスというか選んでもいいところなはずなんだよな。

 

 

最近は人に情報を伝えるためのデザインにハマっていて、型にはまった面白みのないものじゃなくて知識と計算で裏付けられた整列したデザイン。見てて快感を覚える。ポートフォリオのレイアウトとか考えるのとかも。

 

中学の頃、授業のまとめノートを作るのが楽しくて10冊以上作ってたのを思い出す。いかに楽しく綺麗に見えるかを考える。

データを綺麗に見せたり、既にあるものをよく見せるためのデザイン。

 

 

UI/ UXは違和感がないものが当たり前すぎてもはや入る隙がないと思ってしまうのは今まで興味を持ちさえしなかったからなのかな。

今まで自分が気にもかけてこなかったものをゼロからやることへのただの不安、どんなこともやってみないとわからない。ただ私は一つのことを深く深くやるよりは、平均ちょい上ぐらいのものをたくさんできるようになりたい!

 

興味を持てる(無理やりもっている?)うちに、吸収するだけしておこ、触りだけでも…。

 

 

2018 デザイン雑感

 

 

 

実は今年の夏までデザインに対しての意識が停止していて、

もうデザイナーやめよっかな〜^^みたいなところまで行ってたんですが、

結局自分はデザインぐらいしか頑張れないし好きだし、好きの呪縛からはそう簡単に逃れられないので大人しく頑張ることにした。(努力が必要になると私はすぐに逃げようとする)

 

アリムラさんと9月?10月?とかに話したときまあまあにボロカス言われたのがかなり効いてて、

もともとあんまりなかった自信をかなり喪失したけどしゃんとしようと思えたのでよかった。(思うところは色々ありますが・・・)

 

私の力が目に見えて成長しているかどうかは人が判断するものだと思っている、

んでまあ正直今年はデザインはダメダメだったけど意識は整ったし

手の動かし方や知識を身に着けることも楽しくなってきたのでいい調子だと思う。

もう少しスピードあげて数も増やしていくぞ〜

 

 

あとは、なりたいグラフィックデザイナーの像がはっきり固まってきた!

作品というよりは、デザイナーとしての在り方みたいな。

作品一つにデザイナーと依頼者の意思が同居していて、そんでもって最終的に決め手となる理由が「視覚的に美しいから」っていうのに収束するようなデザインをしたい。

社会的に広く受け入れられるものだったという結果が後からついてきたらもっと最高だけどね、それはオマケみたいな感覚で仕事したいな。。

そんなうまくはいかないと思うし、したくないこともいっぱいしなきゃいけないかもだけど、

したくないことをしないほうがいいって思ったときに相手を説得できるだけの力が欲しい。

んで、それはやっぱり相手を知るところから始まるんだよなあ。

相手を知るためには、知識があったほうがいいし、きっと言語もあったほうがいい。

全てのことはデザインに繋がる、あとはうまく出力できたら。

2019年、デザイナーになるぞ〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018

 

 

今年の初め、1月の頃にどんなことを考えてどんな風にいろんなことをやっていたかは記憶が曖昧でよくわからない。

2018年は5月ぐらいまでずっと精神状態が良くなくて、はっきりとしているのは6月ぐらいから、そこからが本番感。

 

というのも、2017年に引き続いてバカみたいな恋愛脳の私は

わかりやすい沼でずっと足踏みをしていて、

1月とか2月はずっとそこで時間を溶かしていた。

そのあと結局何も残らなくて、それでも何かがあったと思いたいのが3ヶ月ぐらい続いたと思う。

そんなくらい毎日の中で、新しい素敵な力によってちょっとだけ息を吹き返したのだった。結局それも恋愛だったし、もう一生こういう運命なんだと思う。

 

 

夏は、何があったのかわかんないけど革命が起きた。

ミニマリズムは宗教、断捨離は信仰、と今日TLで言ってる人がいたけど、

まさにその渦に取り憑かれて、仙人みたいな暮らしをしていた。

その時期に物も、雑念も、自意識も、余計なものが結構振り切れてリセットされる感覚があった。

私は本当の意味で、自分の”持ち物”は自分で決めるんだということがわかった気がした。

 

 

 

でも、どんな思想や宗教にハマっても、一人ではそれを維持するのは難しいのかもしれない。

人間は結局寂しいので、人とつながりを感じないとダメになってしまうのだ。

夏の仙人期間に限界がきて、私はちょっとずつ社会につながりを求め始めた。

そこからは今の状態と大して変わらない。でも、確実に成長したし学んだ。

 

 

社会に出ると人がいて、人の中には私に興味をもったり意見してくれる人がいる。

そんな人たちを全員信じるとか、大切にするとか、そういうのは不可能だし何より自分が苦しくなる。

だけど、それも結局自分の持ち物を選ぶということと同じで、

人からの意見だって自分にとって必要だと感じられなければ食べなければいいのだ。

これは都合のいい意見だけを聞くという意味ではなくて、

『この人は本当に私のことを考えてくれているのか?/私にアドバイスをしている風ではないのか?』

みたいな見極めをするということ、その人の意見という顔をしたただの偏見や感想ではないのか、ということです。

 

 

話が少しそれました、

今年は本当に人間関係がしんどかった。

たくさんの人を傷つけたし傷つけられたと思う。

でも、私は人を信じることをやめられない運命だから、

後ろに下がるのではなくて、そのままの立ち位置でバリアを補強する必要があったのです。

強くなりましたね〜

 

 

 

 

 

『百人一首の感情』を読み始めた

 

 

自分の頭の中にある考えは、

誰かから教えられた既に自分の中にある言葉にはめ込んで均等にすることで、

他人に伝わっているような気がするけど

そこの作業の途中で捨てられた角っこをすくい上げたい。

いつだって内側から外側への変換が100%うまくいくことはほとんどない。

その違和感がきっと一番大事にするべきパーツで、星屑みたいな感じだと、思うから、

その子たちを見過ごして腐らせてしまう前に、

できるだけオリジナルに忠実に再現するための言葉や知識、歴史を知りたい。

毎日の疲れとかさみしさとか、そういうのに毎日をかすめとられてる場合ではないのだ。

 

最果タヒ百人一首の感情』をバイト先の書店で購入して、読んでみる。

まだ始めの方でだけど、何回もページをめくってゆっくり読んでいる。

百人一首の感情』の中身はもちろん、装丁が本当にほんと〜〜素晴らしく、

久しぶりに「私はこういう仕事をできるデザイナーになりたいな」と純粋に心が動いたのであった。

デザイナーにも色々いるけど、やっぱり私はしれっとすごいみたいな人になりたいな〜。

私には何もない、何も知らないな、でももっと詰め込めるんだな。

 

 

 

 

みんな好きだし嫌いだし、みんな好きですね

 

 

あくまで自分の可能な範囲でのコミュニケーション力の中でだが、

相手の反応をあらかじめ想像した上で発言することが多くなった。

失言をしなくなった(あくまで自分の中でだが)、

相手がどんなことを言えば喜ぶのか、恥ずかしがるのか、悲しむのか。

なんとなくわかってしまうような気がしてあまり良くない気がする。

 

ずっと人に媚びているような、自分が本当は何を望んでどうしたいのかよくわからなくなったりする。

でも別に無理やり好かれようとかしているわけではなく、しんどいわけでもない。

むしろ昔より素直になったような気さえするけど、

結局は自分のことを褒めてくれたりよくしてくれる人や、

ただ優しい人に擦り寄っているに過ぎないんだろうな。

ここ最近はずっとなんだか寂しくて、珍しく人と一緒にいたいと思う。冬のせいだね、

最近男に、男たらしだよなーと言われたけどきっと昔からそうなのでなんとも思わない、やっぱそうなんだな。

告白されたいとかモテたいとかじゃないんだけどなあ。

本体と精神をもっと引っつけないとあとあと困るんだからしっかりしろ。

 

 

基本的に人が好きで、すぐ信用する。

みんなのことが好きなので、本当に好きなのがどれかよくわからなくなる。

嫌いになるより好きになる方がノイズが少なくて楽なので、

みんなに好きだと言いまくっていたら最近また困ったことになりかけたのでよくない。

自分でははっきりと「好き」の種類がいくつかあるんだけど、他人にはわかりにくいし。

でも、手がかりとしては、

「好きなんだけど、〜〜。」とかはダメで、

「〜〜だけど、好き」っていうのは信用してもいい。

あと、自分が口にしたくない言葉をさらっと言っちゃう人もダメだ。

そういう判断基準の上で好きな人は何人もいて、

男だったり女だったりぼちぼちだけど

恋愛感情の好きについてはイマイチ掴めないまま、

それでもなんだか恋がしたいなあとはずっと思っていたのだけど。

でもなんとなく最近それにも答えのようなものが見えている。

 

きになる人が二人いて、二人それぞれとご飯に行って同じような感想を抱いて、

私のことを好いてくれているとわかった方と少し距離を詰めてみたけどダメな気がしたのは

なんとなく芽生えた違和感を表面的な利益で誤魔化そうとしていたから。

行き過ぎずに早く気づけて偉いねー、ちゃんとしっかりケアして逃げましょうね。

 

かっこいいとか知識が豊富だとか、自分にとってわかりやすい利益が望めるものに目が行きがちだけど

そういうものがあるからといって飛び込んでみるのはダメですね、もう大人だし!

でも過去に恐れて自分の判断を全く信用しないのも苦しいし、、

面食いだけどもうなんか怖いから信用できそうなかっこよくない人選んでみるとか、そういうのはよくない気がするね。

 

 

いい恋とは、自分の言葉と相手の言葉を合わせたときに

生まれる色というか空気というか熱というか、

そういうのを気分良く纏えるか、みたいな感じなのかな〜と思った。知らんけど。

 

 

自分のことを好きな人のこと好きなのは当たり前だけど

自分のどこを好きになってくれているのかって、わかるじゃん。

顔なのか反応なのか行動なのか使いやすさなのか。

自分の操作が含まれてるところを好かれてもイマイチスッキリしないんだよね。

自分が思ってもみないところを褒めてくれたり肯定されちゃうと一気に好きになっちゃうな。。

 

 

1失敗につき100内省を続けてきた成果が実ったのか、

人間関係で心が荒れる機会は減ったけど同時に刺激もない。

こんな時は爆弾をぶつけられたくなってしまうけど、

煙で視界が霞んでその隙に大事なものを見失いそうだから、

お互いのパーツを交換するような関係を増やしたい。

 

 

何も考えずに呑気に過ごしている人間を

生きやすそうでええですなあとか、そんな感じで見てきて、

怠惰だな、人生イージーなんだろうなとかそんなことをよく思う日々が続いていたけど

幸せになれるように、過ごしやすくなるように努力することを考えるのをやめて

不幸やネガティブに流される方が怠惰なんだということを

とある地下アイドルが言ってて、あーほんとそうだなと思った。

全部他人のせいにするのは論外だけど、自分のせいにすると時々それを使って

人を落とそうとするからそれもダメ。んーバランスう

 

 

 

 

 

しょぼいショッピングモールがすきだ

 

 

しょぼいショッピングモールがすきだ。

時々、地下とかにあるフードコートで雑な安いご飯を一人で食べにいったり、

あてもなくふらふら見て回ったりする。

隅っこにあるよくわからない異常に安い中華とか、

安定の丸亀製麺とか銀だことか、

その中で食べたいものを気分で選んで

呼び出しのベルを持って待つ時間とか。

あのベル、ちょうどいい音量だった試しがないな。やたらでかいから恥ずかしい。

 

食べたあと、雑貨屋とか服屋をぼんやり眺める。

ベンチでうなだれている男子高校生とか

めちゃくちゃ太ったおばさんとか、親子とかを見ていると

飾っていない人々の生活が見えるようで安心してしまう。

 

 

 

私の地元は徳島県で、その中の比較的便利で人の多い所に住んでいた。

小学校の時とかは友達とそういうショッピングモールにいって、

(地元ではフジグランとかゆめタウンです)

プリを撮ったり、安いギャル系の服屋さんを見て回るのが至高だったんだと思う。

ファンシー雑貨のお店で買ったバッグとか、

ステーショナリーとかが大好きだったな、パリスキッズのヘアアクセとか。

高校生ぐらいになると学校が市内だったから、

そこらへんまで汽車で行って遊ぶようになった。

地元に私が欲しいものはほとんどなかったから、服もほとんど通販とかで買ってたな。

 

それでも、家族とたまにしょぼいショッピングモールに行って

ダサいダサい何もないと文句を言いながら、一緒にフードコートでご飯を食べていた。

映画館もそこにしかなかったし。

 

 

 

京都にきて一人暮らしをして

怖いものや寂しいことなんてなかった。

きっと、恋愛とか新しいこととか、

わかりやすくキラキラしたものに夢中だったんだと思う。

今になってこんなに地元の、どこまでも遅くて、頑張らなくて、

色褪せていて、どうしても好きになれなかったあの空気を

京都に来てまで一人で求めるようになると思わなかったな。

 

キラキラや、熱量を持った出来事はいつかほどけて冷める。

そこで残ったものは過去の蓄積でしかなく

20歳の私の過去の17年分は徳島の記憶であるのだから、

当然と言えば当然なんだけど。

 

ああきっと、はじめに何もなさすぎて、

満足してしまっているんだろうか。そうなんだろうな。

ハングリー精神も特にないし、

ぬるま湯はぐらいでちょうどいいのかもしれない。

それではダメだと思い続けたまま、進むのかなあ。

ただ毎日を、ふわふわと生きている。

焦りも悲しみも、あるようなフリをしているだけな気がする。

 

 

私の欲しいものはなんだったんだろう。

派手な服も、おしゃれなカフェも、かっこいい人も

もうあるけどないような、ないけどある、いらない気もする。

アーティストは大阪にさえくれば行ける。

憧れの人のLINEを持ってる。

あの歌人とも写真を撮れたし、モデルさんも見た。

東京のあのお店にももう行った。zipperは休刊した。

 

自分の人生の全てだと思っていたものは別にそうでもなく、

まだ見えない未来によってそれらの割合はどんどん小さくなっていく。

人間が関わるものは全てナマだ、永遠だと思っていたものはどんどん終わっていく。

 

自分を支えてくれていたあらゆる人や文化がなくなると、

過去すらも嘘みたいな気分になってしまう。だってもう見えないのだから。

自分の記憶と心の中にあるものを信じて、みんな一人で生きていくのだと、

それが大人になるということだとなんとなく、静かにわかってしまってから

人生はなんて遥かで長くてさみしいのだろうと思った。

 

きっと、仕事をして、家族なんかもできたら

こんなことを考える暇もなくて、というか忘れるんだろうなと思う。

早く忘れたいなあ、だって忘れないと、目をそらさないとやっていけないから。

 

人間はどこに行っても、自分だけにしかわからない過去の片鱗を見出して、

それに依ってコマを進めていくしかないんだな。

 

しょぼいショッピングモールに入っているサンマルク

ぱちぱちとこの文章を弾いている。

 

カフェラテの泡が厚くて気持ち悪い。

そんな欠陥にすら安心するのは

余裕があるからなのか、ないからなのかもわからないね

 

 

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