敬語について
先日、最近仲のいい先輩とご飯を食べていたときにこんなことを言われた。
「敬語使わなくていいよ。」
私は、家族や親戚、恋人、小さい頃から仲のいい人などを除けば、年上の人には必ず敬語で接している。おそらく多くの人はそうだろう。
すごく頼りにしていて距離の近い先輩や先生などには、多少タメ口混じりで会話することも確かにある。だが、基本的には敬語を使う。
そうしないと、自分の中でしっくりこないのだ。
でも、一体何にしっくりきてないのだろう。
この時目の前にいる先輩は、続けてこう言った。
「敬語を使われると、先輩扱いというか、先輩と後輩の壁みたいなのができる気がして、私に変な責任感が生まれてしまうから。」
そうだろうな、と思う。よくわかる。
仲良くなった年上の人に今まで何度かこんなことを言われたことがある。
だけど、それでも、やっぱり敬語が抜けないのだ。
正直、世の中に溢れている敬語は慣習的に使われているものだと思うし、
私に染み付いている"敬語を使う"という行為も教育によって植えつけられたものなのだと思う。
時々敬語を全く使わない後輩が現れたときに少しだけギョッとしてしまうのは、
自分に敬意を払わなかった怒りなどではなく、このあたりのバックグラウンドの差異に動揺しているに過ぎない。
そうだ、教育された暗黙の了解なのだ、と納得してしまえばこの記事を書く理由はないのだが、
なんとなく"そうじゃない敬語を使う理由"というものが最近芽生えているのを実感しているので、これについて意見がほしくて書き留めることにした。
そもそも、年上である、年下である、というのを決める指標は生まれた順番以外存在しない。
そのような括りは、社会で人が生きる上で便宜上それらをまとめるために一定の期間に生まれた人間をまとめているに過ぎない。
例えば、日本では4月1日に新しい"年度"が始まり3月31日にそれが終わる。昔に日本人が決めたこの一年という区切りの間に生まれた人が"同い年"である。
違う視点で見れば、実力の差などもそうだ。昔に比べると自由な思考が許されるようになった現代では、自分より無能な年上も、はるかに有能な年下もゴロゴロといる。
そう考えると、年齢というものは本質的にはなんの意味も持たないただの数字である気がしてくる。
しかしそれは違う。
私がこの記事で一番言いたいのはここからで、
一見意味のない数字に内包されているものに敬語を使う理由があるのではないかと考える。
それはなにかというと、
「年上の人々は、私がどうやっても埋められない、あるいはまだ訪れてさえもいない時間を既に生きている」ということだ。
そんな大げさな、と笑う人もいるだろう。
しかし、よく考えてほしい。
もし、どんな薬を飲んでも、どれだけ必死で働いても、時空にまつわる物理学を学んでも、
年上の人と生きてきた時間を同値にすることは不可能なのだ。
これは、実はすごいことではないのか。
しかしこのままでは、じゃあ自分より一ヶ月早く生まれた人にも敬意を払うべきなのではないのか?という反論を食らいそうである。
ここについても考えた、それについての意見はこうだ。
「一般的に、一年以上の時間を置かないと生きてきた時間の差異を感じることが難しい。」
本当に、これについてはボコボコにされそうだ。突然一般論を喋り始めているし、結局それも社会の枠組みあってこその思考だからだ。
年齢制限などが存在する限り、それによって人の性格や経験もある程度均一するのは自然なことである。
それでもやはり、よく言われる"大人の余裕"というのは、
私が先ほど述べた"絶対に埋めることのできない時間を生きてきた"という揺るぎない事実があるからこそ醸し出されるものではないのか。
それは、自分が知らない社会経験や人間関係のノウハウなどだけではなく、もっと根本的な、生物的な本能にも関わってきているという気さえする。
少し前に父親も言っていたが、「どんなに仕事ができなくても、年上の人はもはや居てくれるだけでいい」という言葉が少し理解できる気がする。
そういう壮大なものを抱えて、せめてもの敬意を示すことで敬語を使っているのではないかと、私はこの先輩に熱く語ってしまった。
敬語なんかで表せない、もっと大きなもの。
もちろん、日常生活でいちいちこんなことを考えているわけではない。たらたらと語ってしまったが、正直自分でも敬語を使う理由の大半は慣習的な意識が占めていると思う。
しかし、暗黙の了解に流されるのに抗って、なにか自分なりの理由をつけたくなるのは私の趣味だから、これが間違っているのかどうかはさておき、なんとなく楽しいので、これを見た人がどう考えるのか知りたい。