しょぼいショッピングモールがすきだ

 

 

しょぼいショッピングモールがすきだ。

時々、地下とかにあるフードコートで雑な安いご飯を一人で食べにいったり、

あてもなくふらふら見て回ったりする。

隅っこにあるよくわからない異常に安い中華とか、

安定の丸亀製麺とか銀だことか、

その中で食べたいものを気分で選んで

呼び出しのベルを持って待つ時間とか。

あのベル、ちょうどいい音量だった試しがないな。やたらでかいから恥ずかしい。

 

食べたあと、雑貨屋とか服屋をぼんやり眺める。

ベンチでうなだれている男子高校生とか

めちゃくちゃ太ったおばさんとか、親子とかを見ていると

飾っていない人々の生活が見えるようで安心してしまう。

 

 

 

私の地元は徳島県で、その中の比較的便利で人の多い所に住んでいた。

小学校の時とかは友達とそういうショッピングモールにいって、

(地元ではフジグランとかゆめタウンです)

プリを撮ったり、安いギャル系の服屋さんを見て回るのが至高だったんだと思う。

ファンシー雑貨のお店で買ったバッグとか、

ステーショナリーとかが大好きだったな、パリスキッズのヘアアクセとか。

高校生ぐらいになると学校が市内だったから、

そこらへんまで汽車で行って遊ぶようになった。

地元に私が欲しいものはほとんどなかったから、服もほとんど通販とかで買ってたな。

 

それでも、家族とたまにしょぼいショッピングモールに行って

ダサいダサい何もないと文句を言いながら、一緒にフードコートでご飯を食べていた。

映画館もそこにしかなかったし。

 

 

 

京都にきて一人暮らしをして

怖いものや寂しいことなんてなかった。

きっと、恋愛とか新しいこととか、

わかりやすくキラキラしたものに夢中だったんだと思う。

今になってこんなに地元の、どこまでも遅くて、頑張らなくて、

色褪せていて、どうしても好きになれなかったあの空気を

京都に来てまで一人で求めるようになると思わなかったな。

 

キラキラや、熱量を持った出来事はいつかほどけて冷める。

そこで残ったものは過去の蓄積でしかなく

20歳の私の過去の17年分は徳島の記憶であるのだから、

当然と言えば当然なんだけど。

 

ああきっと、はじめに何もなさすぎて、

満足してしまっているんだろうか。そうなんだろうな。

ハングリー精神も特にないし、

ぬるま湯はぐらいでちょうどいいのかもしれない。

それではダメだと思い続けたまま、進むのかなあ。

ただ毎日を、ふわふわと生きている。

焦りも悲しみも、あるようなフリをしているだけな気がする。

 

 

私の欲しいものはなんだったんだろう。

派手な服も、おしゃれなカフェも、かっこいい人も

もうあるけどないような、ないけどある、いらない気もする。

アーティストは大阪にさえくれば行ける。

憧れの人のLINEを持ってる。

あの歌人とも写真を撮れたし、モデルさんも見た。

東京のあのお店にももう行った。zipperは休刊した。

 

自分の人生の全てだと思っていたものは別にそうでもなく、

まだ見えない未来によってそれらの割合はどんどん小さくなっていく。

人間が関わるものは全てナマだ、永遠だと思っていたものはどんどん終わっていく。

 

自分を支えてくれていたあらゆる人や文化がなくなると、

過去すらも嘘みたいな気分になってしまう。だってもう見えないのだから。

自分の記憶と心の中にあるものを信じて、みんな一人で生きていくのだと、

それが大人になるということだとなんとなく、静かにわかってしまってから

人生はなんて遥かで長くてさみしいのだろうと思った。

 

きっと、仕事をして、家族なんかもできたら

こんなことを考える暇もなくて、というか忘れるんだろうなと思う。

早く忘れたいなあ、だって忘れないと、目をそらさないとやっていけないから。

 

人間はどこに行っても、自分だけにしかわからない過去の片鱗を見出して、

それに依ってコマを進めていくしかないんだな。

 

しょぼいショッピングモールに入っているサンマルク

ぱちぱちとこの文章を弾いている。

 

カフェラテの泡が厚くて気持ち悪い。

そんな欠陥にすら安心するのは

余裕があるからなのか、ないからなのかもわからないね

 

 

f:id:gyozaoishii:20181022153255j:image

 

f:id:gyozaoishii:20181022153300j:image

 

f:id:gyozaoishii:20181022153258j:image