8/9 日記

 

 

「今日はもう帰ります、疲れちゃったので」

といって店を出た私を、私はめちゃくちゃに褒めたくなった。

 

引っ越しでもしようかな〜と思っていたので

今日は以前から気になっていた物件1つ、オススメされた物件2つの

全部で3箇所を内見しに行った。

親にも別に言わず、なんとなく。

 

昔の私からしたら一人で店に出向いて、内見をするのにも

緊張したり、変に気が張っていたはずなのに

なんか大人になったというか、

ていうか本当に、今まで一人で何もしたことなかったんだなと改めて感じる。

 

3箇所巡って色々とみたあと自分の今住んでいる部屋と比べたりしているうちに

なんかもう、いいかな・・・みたいになってきてしまい、

部屋がどうというよりかは、もう引っ越さなくてもいいやという気持ちになってしまった。

 

見学を終えて店に戻って色々と感想を聞かれて

今日は特に予定もないのでもう少し値段をあげて物件を探してもらっていたが

途中でなんだか疲労が一気にきてしまった。

 

その兆しを感じたとき、私はすぐに

「あの、今日はちょっと疲れたので帰ります!ありがとうございました」

という言葉が自分の口から出た。

我ながら感動した。

 

わからない人にはわからないと思うが、

多分私が今まで人や社会に気を遣いすぎてただけなんだろうけど

今までの私なら、たとえ自分がめちゃくちゃ疲れていても

担当の人が「お時間大丈夫ですか?」と声をかけない限り話を聞いていたと思う。

 

だから、

「私、なんか私本位で動けてる・・・えらい・・・・」

と、すごく自分で自分を抱きしめたくなった。えらい。

こういう感覚が、今の自分にはとても大事な気がして

覚えておくために、今日は日記を書こうと思った。

 

結構体力的に疲れたものの、満足感を感じながら叡電にのり

スーパーでヨーグルトを買って歩いて帰宅した。

 

 

歩いているときは基本空をぼーっと見ている。

夕方のオレンジがかった光は昔から意味もなく寂しくなる。

綺麗な空だとか夕方の光とかを眺めるのは好きだけど、

この寂しさはいつまで経っても慣れない。

綺麗な空の色や雲の流れ、心地いい風を感じるとポジティブに死にたくなる。

 

 

部屋に帰り、ヨーグルトを器に移し、

買ったばかりの高級なメープルシロップと砕いたミックスナッツをかけて頬張る。

やっぱり、高いものはおいしいな。

高級料理や食材には興味はあまりないけれど、

調味料に少しお金をかけるだけで贅沢な気持ちになれる。

 

高級なメープルシロップといっても、

今まで森永のケーキシロップだったのを100%メープルシロップに変えただけではあるが、

いろいろ混ざっているものは変に口に残ったり、物足りなく感じる。

純粋なものって、自然とちょっとで満足できるものだ。

すごい。

 

よし、夏休みは引っ越しは諦めて、貯金でもしよう。

でもできるだけ働きたくないので、お金を見直すようにする。

いろんな本を読んだり実践して思うのは、

生活をする上で一番大事なのは

「自分がお金をかけたいところをはっきりと見極めて、それ以外を徹底して節約する」

ことだなと思う。

 

下手に手当たり次第ケチケチするのではなく、

情報を集める努力を怠らず、生活を把握してメリハリをつけること。

実際私は月の出費や収入を全く把握できてないので、ここら辺でちゃんと向き合ってみる。

(人と遊ばなさすぎるせいか何故か金は普通にあるけど)

生活を大体でも把握できたら、もっと心が豊かになれる気がする。

 

 

集中講義も昨日で終わり、気づけばもうすっかり夏休みなのだった、私。

今年は誰にも縛られない、本当に一人の夏なのだ。

 

夏が明けたら、どんな自分になってるんだろう。

相変わらず、基本的にはなんの予定もないのに

こんな漠然とした希望を抱いていられるのは、夏という季節の特権なんだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日の世界を救ったのはどら焼きでした

 

 

何か一つのもの、目に入るもの、全てに

誰かがいること、誰かの思想や感想があることが

脳裏をよぎると つらくなり

そんな自分も、また感想を持っている、疲れる

 

「この世に本当に誰もいないものなど存在しないこと」

それを見過ごす、またはそれほどそれが問題ではないと思えるときはまだしも

だけど、近頃、何にも関わりたくない気分なんです

何かの影響を受ける気分じゃないの 今

 

世界でいちばん安全であるとすればそれは部屋

でも、この部屋の中のものは誰のものなんだろう、

そこに付随している過去 思い出 思い入れ

もう全部捨てようか 引っ越そうと思うんです

 

 

誰かに尻尾をふったらブスだね

いちばん可愛いのは誰もいないところ

自分からみた自分と外からみた自分がイコールになればゴールとしよう

世界はもっと、みんな、関わらなくていいよ

わかってるなら関わるフリしなくていいよ

わからない人に、世界のお世話を任せるよ

 

 

 

 

 

 

シュークリームの雲

 

 

今日、バイト帰りに自転車を漕ぎながら

夏のそれらしい青空と高い雲を眺めていた。

視界のど真ん中に浮かんでいる雲の形がシュークリームだった。

だから、今日の昼からの用事を済ませた後はシュークリームを食べようと思った。

 

 

なんとなく、最近すごく自分が軽い。

きっと要因は色々あって、

部屋にある物を大量に捨てたり

本当に気に入ってる服以外全て売ったり

人との関わりをできる限り絶ったり

 

とにかく、自分に必要以上に負担を追わせない状況を作ることを最優先にして

自分がしたいと思ったこと以外を徹底的にやらない努力をしたからだと思う。

 

真面目な人は、結構余計なことを背負いこみがちだし、必要以上に優しいと思う。

だから、自分が多少しんどかったり犠牲になったとしても

周りの人が幸せだったりその場の空気が保たれればそれでいいと思ってしまう。

 

でも、そういう状況が増えれば増えるほど、少しずつ疲れてくる。

だから友達と話したり趣味に没頭したりして息を抜いて、なんやかんやで生きていくんだと思う。

というかそうでもしないとやっていけないと思う。

 

でも、そうやって息を抜いていても耐えられるのにも限度があると思っていて

その回数を突破してしまうと息抜きの機構が多分壊れてしまう。

息が抜けなくなってしまうのだ。

 

そういう時は、一旦全部リセットして、

引っ越したり仕事とか学校やめて、一旦止まらないとダメなんだと思う。

そもそも毎日頑張る必要なんてないし無理な時は無理だし

それは逃げでもなんでもないと思っている。

 

ここで諦めたらダメなきがするとか、諦めない方がいいとか、

なんとなく直感でそろそろわかる。

つらくても頑張れるのなら自分にとっていいつらさで、頑張った方がいいやつである。

でも、頑張れないのは本当に頑張れないのでさっさとやめた方が良くて

多分違うことした方がいいと思う。

 

社会の大半の人が送るであろうライフステージに素直に乗れないひとは本当に乗れない。

そして多分私は今までは乗れていたけどそろそろきついし振り落とされる。

そもそも今まで乗れてきたのがすごいと思う。

運よく受験が成功し親族も安心できる理想的な子だったけど

正直中学ぐらいから普通に生きててもなんとなく窮屈だった。

誰一人知り合いのいない高校に入学して、

また誰一人知り合いのいない大学に入学して、

誰一人知らない場所を探すようになった。

だから、今みたいな結果が自然だと思う。

真面目なので昔の自分をよく知る人は今の私を見るとたまに驚かれるが、

私は自分の意思と感情に対して素直で真面目なだけで、

それが他人の目に不真面目に写っても自分はいつだって大真面目なのだ。

何も変わっていない。

 

 

自分が一応持っている学歴とか経歴に価値を感じなくなってきたので、

早く手放して空っぽになって吸収力をあげたい。

今まで自分に自信がないくせに自我が強いせいで

社会的な評価基準と他者からの承認を気にしつつ

自分の意思を反映させて自己を肯定しようと努力してきたけど

今の自分にはそんな器用なことができないので前者を捨てようと思った。

捨てたものが必要になればまた拾えばいいので、その時はその時で考えれば良い。

 

そもそも今までずっと自分は自由だと思い込んでいたが

自由だと思う時点で自由という枠に縛られていてもうそれも嫌だな。

本読んだりぼーっと色々考えたら枠って更新されるので

その都度枠に名前をつけたりせずに「今日は気分がいいな」ぐらいでいいと思う。

 

 

そういえばおかしいぐらい暑い。こんなに暑いのに外に出て行きたくない所に行くのは普通に考えておかしいと思う。

 

お金について考える。

働かないとお金がもらえないのは辛いけど

そのシステムは簡単には変わらないのでどうにかするしかない。

でも割とどうにかなるのであんまり重く考える必要もないと思う。

やったことがないのでわからないけどフリーターっていいな、

休学してフリーターしたいな、本気で考えている。

 

 

 

あんまり人と遊びたくないので遊んでいない。

もともと遊ばなくても一人が楽しいので苦痛でもないしさみしくない。

SNSも本当に限られた人(インターネットの人)しか繋がっていないし、

自分が欲しい情報以外取り入れていない。

数年ぶりに恋人も恋もない夏だがむしろ楽しい。

今まで自分の決断や気分を他人に預け過ぎていたのだと思う。

会いたい人には自分から会いたいというけど

今はいないので一人でフラフラしている。

 

自分でいろんな答えが出ているので人の意見を必要としていない。

あまり議論する場所には行きたくない。

余計なざわつきや疑いを取り入れたくない。

 

 

夏休みはおいしい物を作って食べて

どこか旅行したいな〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

敬語について

先日、最近仲のいい先輩とご飯を食べていたときにこんなことを言われた。


「敬語使わなくていいよ。」


私は、家族や親戚、恋人、小さい頃から仲のいい人などを除けば、年上の人には必ず敬語で接している。おそらく多くの人はそうだろう。


すごく頼りにしていて距離の近い先輩や先生などには、多少タメ口混じりで会話することも確かにある。だが、基本的には敬語を使う。

そうしないと、自分の中でしっくりこないのだ。

 


でも、一体何にしっくりきてないのだろう。

 


この時目の前にいる先輩は、続けてこう言った。


「敬語を使われると、先輩扱いというか、先輩と後輩の壁みたいなのができる気がして、私に変な責任感が生まれてしまうから。」

 


そうだろうな、と思う。よくわかる。

仲良くなった年上の人に今まで何度かこんなことを言われたことがある。

だけど、それでも、やっぱり敬語が抜けないのだ。

 


正直、世の中に溢れている敬語は慣習的に使われているものだと思うし、

私に染み付いている"敬語を使う"という行為も教育によって植えつけられたものなのだと思う。

時々敬語を全く使わない後輩が現れたときに少しだけギョッとしてしまうのは、

自分に敬意を払わなかった怒りなどではなく、このあたりのバックグラウンドの差異に動揺しているに過ぎない。

 


そうだ、教育された暗黙の了解なのだ、と納得してしまえばこの記事を書く理由はないのだが、

なんとなく"そうじゃない敬語を使う理由"というものが最近芽生えているのを実感しているので、これについて意見がほしくて書き留めることにした。

 

 

 

そもそも、年上である、年下である、というのを決める指標は生まれた順番以外存在しない。

そのような括りは、社会で人が生きる上で便宜上それらをまとめるために一定の期間に生まれた人間をまとめているに過ぎない。

 

例えば、日本では4月1日に新しい"年度"が始まり3月31日にそれが終わる。昔に日本人が決めたこの一年という区切りの間に生まれた人が"同い年"である。

 


違う視点で見れば、実力の差などもそうだ。昔に比べると自由な思考が許されるようになった現代では、自分より無能な年上も、はるかに有能な年下もゴロゴロといる。

 


そう考えると、年齢というものは本質的にはなんの意味も持たないただの数字である気がしてくる。

しかしそれは違う。

 


私がこの記事で一番言いたいのはここからで、

一見意味のない数字に内包されているものに敬語を使う理由があるのではないかと考える。

 


それはなにかというと、

「年上の人々は、私がどうやっても埋められない、あるいはまだ訪れてさえもいない時間を既に生きている」ということだ。

 


そんな大げさな、と笑う人もいるだろう。

 


しかし、よく考えてほしい。

もし、どんな薬を飲んでも、どれだけ必死で働いても、時空にまつわる物理学を学んでも、

年上の人と生きてきた時間を同値にすることは不可能なのだ。

これは、実はすごいことではないのか。

 


しかしこのままでは、じゃあ自分より一ヶ月早く生まれた人にも敬意を払うべきなのではないのか?という反論を食らいそうである。

ここについても考えた、それについての意見はこうだ。

「一般的に、一年以上の時間を置かないと生きてきた時間の差異を感じることが難しい。」

 


本当に、これについてはボコボコにされそうだ。突然一般論を喋り始めているし、結局それも社会の枠組みあってこその思考だからだ。

年齢制限などが存在する限り、それによって人の性格や経験もある程度均一するのは自然なことである。

 


それでもやはり、よく言われる"大人の余裕"というのは、

私が先ほど述べた"絶対に埋めることのできない時間を生きてきた"という揺るぎない事実があるからこそ醸し出されるものではないのか。

それは、自分が知らない社会経験や人間関係のノウハウなどだけではなく、もっと根本的な、生物的な本能にも関わってきているという気さえする。

少し前に父親も言っていたが、「どんなに仕事ができなくても、年上の人はもはや居てくれるだけでいい」という言葉が少し理解できる気がする。

 


そういう壮大なものを抱えて、せめてもの敬意を示すことで敬語を使っているのではないかと、私はこの先輩に熱く語ってしまった。

敬語なんかで表せない、もっと大きなもの。

 


もちろん、日常生活でいちいちこんなことを考えているわけではない。たらたらと語ってしまったが、正直自分でも敬語を使う理由の大半は慣習的な意識が占めていると思う。

 

しかし、暗黙の了解に流されるのに抗って、なにか自分なりの理由をつけたくなるのは私の趣味だから、これが間違っているのかどうかはさておき、なんとなく楽しいので、これを見た人がどう考えるのか知りたい。

京都

 

1日のほとんどを寝て過ごしている

無駄にした!うわー!と思いながらも夜更かししてしまうのだから

そろそろ、昼夜逆転に引け目や反省をしたりしない人になりたい

 

浴びるようにマックフィズゆずを飲む女です

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柑橘が好き!ゆずみかんグレープフルーツオレンジレモンすだち(徳島アピール)

マックフィズは、シロップは特注だけど炭酸部分はスプライトらしい

つまりこのシロップさえ手に入れられれば

販売期間が過ぎても自宅でゆずフィズを楽しむことができるのだ

ヤフオクとかで出ないかな?マックフィズゆずのシロップ

 

(呼び出し番号333、ちょっと嬉しいね)

 

今日、本を買いました

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京都の小商い

『就職しない生き方ガイド』

私は漠然と、自分で何かを作りたいという願望があるようで

それはブランドでも会社でもなんでも良いのだけど

今日なんとなく、お店したいなーって思って

ある本を探して(全然違うジャンルのやつだけど)恵文社に行って

これを見つけて、お目当の本なんて放ったらかしで5秒で買ってしまった

 また感想が文章にできそうだったら記事にしようかなあ。

 

そういえば、このブログに記念すべき一人目の購読者がつきました

私的、京都で最もアツい男性です

どうにかこうにか解除しないでください、さみしいので、

購読ありがとうございます

 

そういえば、世間の一般常識に疎い私が

乙ゲーのダウトで知ったちょっと好きな豆知識

「結婚式の招待状の返信に句読点を使ってはいけない」

これってみんな知ってますか?

なんか素敵ですやね、お祝い事には終わりをつけないって意味らしいです

マナーの意味を知ると時々ほっこりした気持ちになります

そういうかんじです

 

カレーうどんたべよ

今度、だれか一緒にみず色クラブいってください。

 

咳をしても一人

という有名な詩を世に出した詩人は天才だなあ〜と

何日時間が経ったかわからない、誰もいない部屋でしみじみと思う

尾崎放哉っていうんですね、かっこつけてるくせに作者の名前を今知る

 

遠く離れた、ケーブルで繋がるあの人は生活に忙しくて

(どこかでみた好きな表現引用)

私はなんにもないからただただ寂しい。

この部屋の空気にも飽き飽き、外に出ても誰も会わないし、でも誘う気にもなれなくて

本を読んで、部屋の中で部屋でないところにいく

 

うさぎはさみしいと死ぬというけど、

生意気なうさぎが、「うさぎは寂しくて死ぬ?死なねえよ 寂しくて死ぬのは人間だけだよ」

っていってる漫画を見たことがある

面白いな〜そうだよねえ本当に

 

でも私がこうやってさみしいという期間はそんなにも長く続かないのだ

10月に入ったら学校も始まって人と会って

毎日何かについて考えて頭もしゃきっとするはず

 

ある人が、私に

もっと素直になれ人生は一度きりなんだから、

嘘をつくことも必要だろうまっとうな人間なんてなにを持ってまっとうとしているのか、

自分が思うように生きればいいんだよ

なにも気兼ねしたり遠慮したりすることはない

社会や自分の周りの人の価値観と自分を比べて卑下する必要はない

ということを語ってくれた

 

そうやって生きたい〜私だって〜

なにがそんなに私を縛っているのだろう

縛っているものなんてないけど私を動かす何かがないだけなのかも

何かをしたい何かに没頭したい何かに憧れたい

新しい人と出会いたい

どこか、家族とか周りの人を悲しませたくなくて

普通に妥当に無難に生きるべきなんだって考えてる

私はなにがしたいんだろう〜。

 

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砂糖と寂しさ

 

 

今日熱海から京都に帰る、1番初めの列車

途中で降りなきゃいけないのに間違えて終点の静岡まできちゃって

もうなにも考えずにおとなしくマックに入る

 

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うん、やっぱりマックフィズのゆずはおいしかったし

サラダもめっちゃうまいし

それ以下でもそれ以上でもなく

いつも通りおいしい

 

落ち着く

 

誰も絶対なんて言ってはないけど、

私は多分、「せっかくなんだから」を義務に捉えている

「せっかくここに来たんだから、〜〜を食べるべきだよ」

期待しすぎるし緊張もするしお店に入れないし

ご飯を探すのに、たいへんな労力を使う

 

おいしいものを食べたいなとは思うけど

どんなに高い料理を食べても味気ないのは、

やっぱり一人だから

家族や恋人、大好きな友達といるとき

大体のものはおいしいと感じるし

その逆もしかり、おいしいと感じるのは大好きな人と一緒に食べるから

 

一人旅はもうきっとこれが最初で最後かな〜。

綺麗なものは見れてよかった。

 

楽しまないと、っていわれると楽しまないといけないと思ってしまう、義務

まあ、「楽しめるもんなら楽しみなさい」なんていう人なんていないけど。

楽しい感情は気の持ちようではなく、

感じたことを声と表情で誰かに伝えたときに

初めて楽しいと脳に刻まれるのでは

と、この旅に思う

 

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上記のことを友達にだいぶ省略して伝えたら

彼は、「誰かが隣にいてほしい、その寂しさが好き」と言っていた

ほ〜そんな見方もあるか

 

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そういえば、朝勧められた喫茶店にいってみたの、勇気を出して

そしたらね、まあ当然アイスコーヒーはブラックで出てきて

ミルクと砂糖がでてきたの、まあ砂糖じゃないんだけどね

砂糖だと思ってブワーッてふりかけたら塩だったのね。

コーヒー全部飲めなくなっちゃった、あーあ

 

だから、もう一人で喫茶店行くときは

スタバ、タリーズドトール等へ。

「昔ながら」の喫茶店には行かない〜

 

さっきの、ご飯に関してひねくれたことを言ったのは

この喫茶店のせいかもしれないね、絶対そうだね

 

マックフィズのゆず、コンビニで買ったフルーツカップ

ごくわずかな、孤独を感じない食べ物は全部甘かった

だから人はチョコレートをつまむのか

 

寂しさは砂糖、砂糖は麻薬。。