世界のわかりかた

 

 

旅行から帰ると、部屋に物が多すぎるような気がして

荷解きが終わるなり断捨離が始まる。

どんなに楽しい予定の後にも、

イヤホンを耳に突っ込んで、いつもと同じような音楽を聴いて

テンションを一定値まで戻す。

私の日常には、そういう一定の絶対的な量の感覚がある。

 

飛躍するには、違う場所へ行くには、新しくなるには。

そういう絶対的な戻る場所と状態があって、

それは絶対的であるからこそ、縛られるものではなく、

自由であるためのものだと、、

土星4ハウス振り返り、みたいな話)

 

 

しばらくブログを書けなかったのは、

思考を、伝わる用にあんまり変換せずに言葉にして、

書き示しておくことが重要じゃなくなったから。

というのも、過去の記事を見ていると

私は仕事で本当にどうしようもない感じになっており、

何を希望にしているのかもわからずに、留まり続けていたのだが

最近は風向きが変わって、なんか急にちょっとわかってきたのだった。

 

それは、一回ちゃんと、もさっとしたこと言わず

現実を一生懸命やるぞという決意をして、

それをある程度身体に叩き込むことができたからなのかもしれない。

もちろん、運がいいとしか言いようのないことや、

機会を適切にあたてもらった環境ありきなのだが、、

 

「そこにいるならお前がやるんだよ」という

そういうマインドセットにならざるを得なくなり(遅い)、

もうやるしかなくてやって、

前向きに素直に捉えると、役職というちゃんとした形として

一旦認めてくれた感じになったのだった。

 

 

そこで、まあ多分自我が2種類、、、

もさっとしたことばかり言う世界に誰もいない状態の私と

チャキチャキ仕事して現実のゲーム的な部分を大真面目にやる私を

どっちも現時点でやれるところまでやり尽くして、

前者をちょっとずつ取り戻していこうと言う心境、

で、またブログを書く

 

 

「期待せずとも諦めないことができるようになるよ」

っていう友達からの言葉が身にしみる日々、

その段階までもう少しだ、、

 

 

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人間関係。

信じることは、相手の言葉を信じること。

愛することは、相手の姿勢を肯定し、信じること。

「本当のこと」は、自分が信じられる事実にのみ存在する。

つまりすべての関係は、自分の中にだけ決定できるものなのだと

そう思うことでしか前に進めないような時期から数年が経ち

やっぱりそれではどうしたって孤独なので

そうじゃないかもな、という捉え直しをしたい、

 

自分以外の人と社交ではない関係になる時は

そういう考え方でしばらくじっとしていたのだけど、

そして、それは間違ってないとも思うのだけど、

自分にとって、もっと柔らかくて素直なやり方が

あるんじゃないかという希望みたいなものを持てるかもしれん、

 

人はみんなそれぞれちょっとずつ

何かを抱えて、何か別の大事なもののために隠したりして

バランスをとっているものですね。

一緒にいる瞬間を1番楽しくて幸せにするための協力は

そういう面も含んでいるとは思うんだけど

 

誰も見ていないところなら赤信号を渡るような

人間関係の作り方をするのは、

そういう世界を肯定していることになると思う、

その加担に無自覚で、自分を過信していて、

だからなんか嫌なんだと思う

 

本当のことはこの目で見ないとわからない、

何を思っているかは本人にしかわからない

それでも本音を知って濁流ごと飲み込まないと

やった感が出ないんだなあ〜はあ〜