夏の憂鬱
帰省するバスの中、あと何回元気な状態の親に会えるのか、みたいな心配をよくする。
昔から、家族がわたしを残して出かけるたびに
交通事故でみんなが死ぬような想像をしょっちゅうしているような具合だったから、
自然なことと言えばそうだけど、
自分が歳を重ねて季節がびゅうびゅうと過ぎることは、
家族も同じであることを時々忘れてしまう。
実家に帰るたびに、ずっと昔のまま時が止まっている自分に気づく。
京都での生活がすっかり馴染んだ21歳の私で顔を合わせにいくのではなく、
日々の生活から逃げるように地元へ帰っているだけなのかもしれない。
それでも、実家では常にテレビがついていることが今は耐え難かったりすることなどを思えば、
私は私の選んだ生活をやれているのかもしれないと、少し自分を肯定できる気がする。
京都での生活といっても、ただ京都に子ども部屋を作ってもらっただけのような甘いものであるから、
次の春のことを思うと自分が東京で労働や暮らしをやっていけているのかよくわからなくない。
でも、かつて戻る場所だと思っていた場所は私のいない形になってもう落ち着いているのだから、
進むしかない、或いは、
自分の居場所をこじ開けていくしかないのだと言い聞かせて、慣れない人生をやっていくしかない。
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時間が経つのを待っている、健康になればはやく目が覚めてしまうのがつらい。夏休みの正解を導き出せない。
新しい人と出会いたい、ここではない場所で。誰も知らないところへ行きたい。捨てたい捨てたい、資本とか思想とか。
社会を憂う、思い通りになりたくないと思うことが、もう誰かの思惑どおりなのかも。
考えすぎはよくない、だって結局何も考えてないから。同じところをウロウロしているだけ、とりあえず入ったスーパーで、みたいに。
集中力がない、明日のことしか考えられない。先のことを考えたふりをして、周りがそれを把握して、心配されないようにそのとおり動いているだけなのかも。
私を定義するものは何だろう、壊れる(うー)顔貌変えたい替えたい、誰も知らないところへ行きたい、誰も知らない私になりたい