カヌレと、デザインのそれでもと

 

 

ここしばらく数ヶ月はグラフィックみたいなものを製作する意欲が果てしなくゼロだったのだけど、

今日ふとなんとなく意味のないものを作りたくなって、カヌレを描いた。

 

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いつも成果物だけを見ると絵として成立しているような気持ちになってしまい自分の能力を過信してしまうが、

そもそも私は絵が描けないのですんなり完成するわけではない。いつもそのことを忘れそうになってしまうので危ない。

 

このカヌレだって、描こうと思い立ってから下絵の段階で1〜2時間はカヌレの写真とのにらめっこからだ。

観察が感覚的にできないため、どこから描いていいかわからないのだ。

 

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いつも作業の始まりは本気でこのレベルである。絵が描けない人のタッチだ。

ずっと「気持ち悪いな」と思いながらひらすらカヌレを描いていた。

見たものをそのまま描くことほど難しいことはない。

ここが今まで絵をきちんと描いてきた人とそうでなかった人の大きな差である。

 

それでもとりあえずカヌレを描きまくる。

かわいいカヌレを描きたいという強い意思があるからだ。

 

 

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途中で『さらっと描けもしないのに補助線を引かない』という初歩的なミスを犯していることに気づき、一気に描きやすくなった。

ある程度形が安定してきてお気に入りのカヌレが描けたら、下絵を取り込んでソフト上で描画する。

 

ここからもまた大きな壁が立ちはだかる。

パスの線画のカヌレをどう色付けしたらいいかわからない。

またカヌレの画像とのにらめっこが始まる。次の観察対象は陰影と質感である。

色はいくらでも後から変えられるが、この二つの要素は着色の段階でふさわしいブラシを選び、丁寧にタッチしていく必要がある。

レイヤーをきちんと分けながらやればやり直しもきくので下絵ほどは苦労しないが、

カヌレは形や色が意外と地味なのでイラスト映えしない。デコラティブな要素がかなりそぎ落とされたスイーツである。

ゆえに質感が命なのだ。

 

そんなこんなで、たった一つのカヌレのイラストに3時間ぐらい、

そこから背景色や画面に対するカヌレの大きさを調整していると

結局トータルで4時間ぐらいかかってしまった。

相変わらずの非効率さというか、能力の低さに悲しくなるが

人様に晒そうと思えるぐらいには納得できるものができたし、

学びも多かったし、なにより楽しかったのでよしとする。

次からはもっとはやくから補助線を引きたい。

 

 

カヌレの絵はただの遊びだけど、

この絵の下絵の初めの方みたいな惨劇がデザインの仕事を引き受けた時も毎回起きるのは辛い。

まあ練習してどうにかなるものでもないし

ここから雲を抜けて作業が加速し始める瞬間がデザインをしていて一番楽しいときだからいいのだけど。

 

私は美大生でも専門学生でもなければ理系の普通の大学生で

デザインを専攻しているわけでもなく全て感覚的にやっているので、

今は自分の能力に自信がないこととや第三者の客観的な意見を貰えない環境のまま仕事が成立していることに、

初めて依頼を貰った2年ぐらい前からずっと怯えている。

第一は私とクライアントが納得できるものを作ることなので、そこに妥協がなければいいんだけど。

納品物としてではなく、私自身の作品としての自信をもっと持てるようになりたいんだよな。

 

一時期はデザインについて考えたり仕事受けるのも嫌になって離れていたけど

遺伝子レベルでデザインが好きというか、かわいいものが好きみたいな

そういうのからはどうにも離れられないっぽいな。

絵は描けないわ自己評価は低いわ、でも、

それでもやっぱりデザインしたいんだよなー、と最近思う。

 

あくまでデザインなので、自分以外の何か目的があってそこに向かっていくという意味では

自己表現を目的にしているアートとは違っていて、私はアーティストにはなれないなと思う。憧れではある。

 



もう何について喋ってるのかわからないのでここら辺にしとこ〜。

私にもこれだけ言いたいことが溢れるぐらい好きなんだなと思えるものがあってよかったよ

 

 

 



 

 

 

 

 

車窓より

 


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どうしても手放せないZINEがひとつだけあって

確か名前は、「landscape by the window」

京都の小さなイベントでなんとなく買った6ページぐらいの写真集で

電車かなにかの窓から撮った風景の写真がただ並んでいるだけのもの

 

 

東京と京都の往復は新幹線で、いつも車窓を眺めている。

私は空を眺めるのが好きだ。

お母さんいわく、小さい頃からよく窓の外を眺めてていたらしい。

 

ポエマーみたいだが、

空は二度と同じ表情にならなくて見ていて飽きないのでいい。

雲はいくつもの層になっていて、その層ごとに光の色や強さも違う。

動く速さも違う。

"ほんとうに"  地球が球体だと思ってしまう。

見たこともないのに

 

 

 

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東京にいく理由

 

 

東京にいる。

年に3回ぐらいは東京に遊びに行ってて、

いつもそんなに何をしに行くのかと尋ねられるが別に何もしていない。

私と定期的に喋りたいらしい人がいるのでその人に会いに行って、

その人の予定に合わせてイベントとか調べたりして、

あとはまあせっかく来たしな〜ということでブラブラしている。

毎回いろんなところに行くものの友達がいないので寂しくなって、疲れて帰るのがおきまりのパターンである。

 

今回は前回までと違って、自意識過剰が改善したおかげで大体のお店には一人で入れるようになったし

グーグルマップに張り付かなくても歩ける余裕が出ていたので

いつもよりは自由にのびのび過ごせていると思う。

 

そういう状態で東京を歩いて思ったことは、

まあ薄々感じてはいたけど、別に何もないなということである。

 

徳島で生まれて18年間過ごした田舎暮らしの私にとっては東京は憧れの街だった。

中学の同級生たちと馴染めず、居心地が悪くて辛かった時期に

私がハマったのは原宿のファッションだった。

zipperやFRUiTといった雑誌を貪るように読み

ヤフオクでNADIAやキャンスパの服を毎日のように見漁り、

時にはリサイクルショップで奇跡的に入手したangelic prettyのロリィタ服を着てお母さんの隣を歩いた。

 

原宿のそういうブームが去ると同時に私もだんだんとそのようなファッションへの興味は薄れていたけど、

人生で影響を受けたものとして一番に言えることはその当時の原宿ファッションだと思うし、

形は変われど今もまだ、

その頃に感じたときめきやファッションへのこだわりは間違いなく生き続けている。

 

だからこそ、東京への憧れや漠然とした幻想みたいなのがいつまでも拭えないのは仕方ないのだと思う。

周りの人や東京に住む人からはずっと、「東京なんて別になにもないよ」といっていたけど、

わかっちゃいるけどそう思いたくなかった。

 

大学生になって京都に来てからも、早く東京に行きたいとずっと思っていた。

大学を京都にしたのは高校生の私なりのいろんな理由があって、

その選択は今ではむしろよかったと思ってはいるが、後悔した時期も多々あった。

 

田舎独特の閉塞感、変わり映えしない街と人、

新しいものが好きな私にとってはそれがとにかく怖かったのだと思う。

京都は京都で独自の文化があって、面白い取り組みや人もいて、かつ住みやすくて今では大好きでたまらない場所となった。

それでもやっぱり、東京に行く選択肢が消えたことは一度もなかった。

 

 

 

でも、今回東京をひとりでいくらか回って、

会っていろんな話して、なんとなく

「ああ、もう私は東京じゃなくてもよくなってしまったんだな」と思った。

東京という街に価値を求める時代は私の中で終わったのだ。

 

別に悲しくはない。

むしろ、東京に浮足立ちながら就職して失望してしまうよりよっぽど幸福な気づきだったと思う。

 

結局、どこにいても人は人、自分は自分。

環境が人に影響を与えるのは事実だが、変化を求めて環境を変えるだけではなにも生まれない。

場所を変えるというよりは、「コミュニティを選ぶ」という感覚が一番大事だ。

 

新しいものが入り込みやすい場所、自分にとって重要な人と出会う確率が高くなる場所、仕事がある場所、

これからの私にとっては、東京とはそういう場所なのだ。

 

就職してからそれがあまり達成されてないと感じたら、多分私はすぐに場所を移すだろう。京都に戻りさえするかもしれない。

それでいいのだ。

 

 

これから先、住みたい場所を探すという理由で旅行をする機会が増えそうだな。はやく海外にも行ってみたいなー

 

でもやっぱ、ちょっとさみしいな

 

 

 

手間を愛せない自分は嫌いじゃない

 

 

コーヒーの豆をミルで挽いてフィルターにお湯を注ぎ、

毎朝自分で淹れたコーヒーを嗜める人はかっこいいと思う。

 

 

出汁をとるのかほんだしを使うのか

生姜はチューブかすりおろすのか

めんつゆは買わずに手作りするのか

 

 

私はいわゆる”ちょっと生活にこだわりを持ってる人”になろうとしていた。

で、とりあえずそういう人たちを片っ端から真似をしてみた。

でも実際やってみて思ったことは、コーヒーも出汁もそうだけど、

手間を愛せないと無理だなと思って続かなかった。

それに気づくと同時に、自分が本当は死ぬほど面倒くさがりで

いろんなものをいい感じに扱うのが死ぬほど下手だということもわかった。

 

私の生活は、

ご飯は楽してそれなりにおいしければ満足だし、

毎日ぱぱっと化粧がいい感じに決まって、

安く可愛い服が手に入れられるのが一番嬉しいのだ。

つまり、最高に庶民的なのだ。

 

 

私は服が大好きで、かつてはいろんな服を増やしていた。

ブランドや最新ファッションに興味があるというよりは、

自分に似合う服を探して組み合わせ、着飾ることが好きだ。

 

ただ、本当に持っている服を満遍なく扱えていたかと言われるとそうではない。

だから、本当に大事で大切で破れたら泣いて修理にだす!!!ぐらいのレベルの服以外を全て手放してみた。

 

実際それで生活してみたが、驚くほどに何も困らず、

むしろ服を選ぶ時間を取らずにいつも最高に好きな服だけを着られて満足なのだ。

これで服代はかからない。今ある服を大事にすればいいだけ。めんどくさくない。

 

こういう感じで、

『今まで「自分はこうじゃないとダメだ」と思ってたことが

意外とそうじゃなくてもいけちゃう』発見はめちゃくちゃ楽しい。

そういうのを日々の生活の中で積み重ねていく中で、

本当に譲れないこだわりが生まれていく気がする。

 

夏休みが始まってからこういうことを考えて暮らしてみて

1ヶ月で気づいたことを思いつくままあげてみる

 

 

<外見を飾ることについて>

・追う価値のあるブランドは現段階でzuccaのみ

・服に1万以上出さなくていい

・髪型は黒髪ぱっつんロング、ただし綺麗に保つ

・ネイルしてもそんなにテンション上がらないからしなくていい

・アクセサリーはつけなくていい、ピアスも付け替えない

・バッグ2〜3つあればいい

・口紅は赤2種類だけでいい、ただし色味は死ぬほどこだわって選ぶ

・アイメイクは二重にするのと下まぶたのキラキラ

 

<食事>

・食べてる時が一番幸せ

・なんやかんやで和食が好き

・朝ごはんは少しだけ食べた方がいい

・米の方が好きだけど米だけも無理

・雑味のあるものが好き

・家のご飯が落ち着く

 

<人間関係>

・1日中人と遊んだら次の日は基本的に何もできない

・3日連続で人と会うと寝込む

・バイトが存在しているだけで気持ちが終わるのでできるだけ入れない

 

<その他>

・ものを選ぶとき一番重視するべきはデザインだが、買わない理由が機能性だった場合は買わない方がいい

・インテリアはとりあえずIKEAを覗けば大体解決する

・貧乏性なので悩んでるなら高いものは買わない方がいい

・楽しくないと本当に何もできない

・変化に柔軟だがすぐ飽きる

・結局デザインするのめっちゃ楽しい

 

 

身の丈がわかる。

これが私で素がこれで嫌いじゃない。

無意識の見栄を張らなくていいので楽になったし、

これから頑張りたいことを頑張れる土台が整いつつある。

8月は大成功だったね〜

 

 

9月は本番、継続しつつ、

慣れに生じた余裕へ未来的要素を追加するのじゃよ!

ふぁい!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8.5月

 

 

pm 11:02

 

今日も30ℓのゴミ袋を二つだす。

断捨離は一度勢いがつくとどんどん進むので楽しい。

物を捨てていくたびに、本当に大事なものってほとんどないなと思う。

笑っちゃうぐらいのどうでもいいものがゴミ袋に放り込まれているのをみると

面白いような、少し寂しいような気持ちになる。

 

今日は、昔に買った絵と、

大学に入ってから集めていたフライヤーを全部捨てた。

デザインの勉強や参考にするために集めていたけれど、

見返したことなかったなそういえば、と思い捨てた。

 

絵も、好みではあるけれどなんとなくいらないな、と思い捨てた。

 

もともと物を捨てることにそれほど抵抗がない。

だから、物を捨てられない人の気持ちに共感しにくいのだが、

さっき私が行った「少し寂しい」の部分がとてつもなくデカかったりするんだろうか。

そういう人たちは、ゴミを処理場まで持って行かれて燃やされる直前にいたとしても

死ぬ気で取りに行くほどのものを持っているんだろうか。

 

自分が持っているものを思い出せる数なんて限られている。

眼中から消えたらないも同然、次の日からはもう忘れてるほど我々はバカなのだ。

 

 

物に限らず、何かに依存するのはダサい。

この世の中に絶対が存在しないこと、

強いていうならば自然法則と自分しかないということに感づいた時には

人や世の中、そして自分が変わることが怖くなくなっていた。

世界の中心は自分でしかないのだ、絶対的な真理はここ・・・

 

 

最近、よく人から相談を受けたり意見を求められることが多い。

自分の意見が、その人の生活に

何かしらの意味を持つことほど嬉しいことはないな。

私自身は、最近感情を使用するイベントをできるだけ避けているので

人の話を聞くことでちょうど良い塩梅に精神が安定する。

 

 

人の話を聞けば聞くほど、

『嫌われる勇気』の

「全ての悩みは対人関係においてのみ発生する」みたいな旨の一文を思い出す。

 

「自分に自信がない」などといった、一人で完結していそうに見える悩みほど

人からの評価や過去のバッシング、社会的立場や常識など、

不特定多数の人間が潜んでいる。これも紛れもない対人関係の一つ。

そういう悩みほど、潜在的で自分では気づかないことが多いので厄介だ。

時間をかけて、ゆっくり解いていくことしか解決策がないけれど

それを手助けするのもまた他人。

私を頼ってくれる友人や大切な人たちにとって

そういうきっかけを与えられるようになれたらいいな

 

 

 

気づいたら夏が終わりかけている。

お盆を過ぎた途端、何かの合図があるのかと思うぐらいに涼しい。

秋から冬にかけての全てが好きなので、

少し調子に乗って長袖のワンピースを着たら暑くて脱いだ。

 

夏ってこんなに短かったっけ。

夏休みは始まって2週間しか立っていないけれど、もう全うした気分だ。

 

夏といえば、に続くイベントに精力的ではない性格とはいえど、

花火も祭りも行かなかったことを少し後悔している。

お盆を過ぎるとほとんどイベントはないし、

巻き返すつもりで今から手持ち花火や海に行ったりしても、

夏の終わりの部分だけが強調されてしまうのは明らかだ。

 

あと半分、どこにもいけない寂しさを

誤魔化す8と2分の1月・・・

 

 

 

 

 

内向的なあれ

 

 

自分の精神世界で完結できる感覚が増えてきた、試行錯誤の日々ですね〜

 

世界のkitchen?みたいな

コーヒー風清涼飲料のんだことありますか?

あれめっちゃまずい

散歩中に買ってまずくて即捨てたわ

 

なんか最近、旅行先とか綺麗な景色を背景に

楽しそーに自撮りする人間の気持ちがわかってきた

 

 

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田舎は空がでかくてサイコー

私は自然の中では空と雲がめちゃくちゃすき

絵みたいだよね〜でも写真に撮っても見返さないから

空を平面に収めるのがダメなのかなあとおもったの

でも空みたいなクリームソーダとか立体的な飾り物とかもあるけど全然ダメだよね

そもそもね〜移り変わるものを閉じ込めちゃダメなんだろうね

時間と同じだよね〜自然も

 

二度と同じに戻らないことが昔は怖かったし悲しかったけど

今はぜんぜんそんなことないな

あ〜変わるなあ  みたいな

大人になったなあ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8/9 日記

 

 

「今日はもう帰ります、疲れちゃったので」

といって店を出た私を、私はめちゃくちゃに褒めたくなった。

 

引っ越しでもしようかな〜と思っていたので

今日は以前から気になっていた物件1つ、オススメされた物件2つの

全部で3箇所を内見しに行った。

親にも別に言わず、なんとなく。

 

昔の私からしたら一人で店に出向いて、内見をするのにも

緊張したり、変に気が張っていたはずなのに

なんか大人になったというか、

ていうか本当に、今まで一人で何もしたことなかったんだなと改めて感じる。

 

3箇所巡って色々とみたあと自分の今住んでいる部屋と比べたりしているうちに

なんかもう、いいかな・・・みたいになってきてしまい、

部屋がどうというよりかは、もう引っ越さなくてもいいやという気持ちになってしまった。

 

見学を終えて店に戻って色々と感想を聞かれて

今日は特に予定もないのでもう少し値段をあげて物件を探してもらっていたが

途中でなんだか疲労が一気にきてしまった。

 

その兆しを感じたとき、私はすぐに

「あの、今日はちょっと疲れたので帰ります!ありがとうございました」

という言葉が自分の口から出た。

我ながら感動した。

 

わからない人にはわからないと思うが、

多分私が今まで人や社会に気を遣いすぎてただけなんだろうけど

今までの私なら、たとえ自分がめちゃくちゃ疲れていても

担当の人が「お時間大丈夫ですか?」と声をかけない限り話を聞いていたと思う。

 

だから、

「私、なんか私本位で動けてる・・・えらい・・・・」

と、すごく自分で自分を抱きしめたくなった。えらい。

こういう感覚が、今の自分にはとても大事な気がして

覚えておくために、今日は日記を書こうと思った。

 

結構体力的に疲れたものの、満足感を感じながら叡電にのり

スーパーでヨーグルトを買って歩いて帰宅した。

 

 

歩いているときは基本空をぼーっと見ている。

夕方のオレンジがかった光は昔から意味もなく寂しくなる。

綺麗な空だとか夕方の光とかを眺めるのは好きだけど、

この寂しさはいつまで経っても慣れない。

綺麗な空の色や雲の流れ、心地いい風を感じるとポジティブに死にたくなる。

 

 

部屋に帰り、ヨーグルトを器に移し、

買ったばかりの高級なメープルシロップと砕いたミックスナッツをかけて頬張る。

やっぱり、高いものはおいしいな。

高級料理や食材には興味はあまりないけれど、

調味料に少しお金をかけるだけで贅沢な気持ちになれる。

 

高級なメープルシロップといっても、

今まで森永のケーキシロップだったのを100%メープルシロップに変えただけではあるが、

いろいろ混ざっているものは変に口に残ったり、物足りなく感じる。

純粋なものって、自然とちょっとで満足できるものだ。

すごい。

 

よし、夏休みは引っ越しは諦めて、貯金でもしよう。

でもできるだけ働きたくないので、お金を見直すようにする。

いろんな本を読んだり実践して思うのは、

生活をする上で一番大事なのは

「自分がお金をかけたいところをはっきりと見極めて、それ以外を徹底して節約する」

ことだなと思う。

 

下手に手当たり次第ケチケチするのではなく、

情報を集める努力を怠らず、生活を把握してメリハリをつけること。

実際私は月の出費や収入を全く把握できてないので、ここら辺でちゃんと向き合ってみる。

(人と遊ばなさすぎるせいか何故か金は普通にあるけど)

生活を大体でも把握できたら、もっと心が豊かになれる気がする。

 

 

集中講義も昨日で終わり、気づけばもうすっかり夏休みなのだった、私。

今年は誰にも縛られない、本当に一人の夏なのだ。

 

夏が明けたら、どんな自分になってるんだろう。

相変わらず、基本的にはなんの予定もないのに

こんな漠然とした希望を抱いていられるのは、夏という季節の特権なんだろう