言葉以外で
音楽を聴くことがもはや気分を超えてきてる感じがあって、
これはなんていうか、言語化できなかったものの一部は音なんじゃないかな。
音が記号になりつつある。
言葉は万能ではない、
説明できないことの方が多いっていうのはよく聞くけど
ここでいう説明っていうのは言葉での、あるいは図での、
目で示せるものなんだよなたぶん、
説明できないものがあるならば逆説的に
説明できないものは言葉以外のもので存在を証明できるんだな!
感覚が拡張する、受容する器官がふえる
目に頼りたくないというか、限界があるね
視覚みたく嗅覚味覚聴覚、いろんな感覚のレベルを引き上げたい!
言語が万能なのは他者がいる場合に限りなく同じ事象を
指し示すことができるという点にあって(完全に同じではないが)、
それは確かにそうで、現段階では
コミュニケーションはどうしてもそこに頼るしかない。
でももうずっと前から、世界を自分の言語(言語とか色とか形とか音とか)に翻訳して理解する感覚がありー
それがもはや言語ではなくあらゆる、共感覚とまではいかないけど、それに近いような理解の仕方を望むようになってきた
だから、いまは相手が存在するシーンでは適用できないけど、
まずはじめは自分を実験台にしてやってみる。
理解の方法を増やす、言語は手段ではなく記号として拡大解釈した方がより豊か。
先人たちが自然に触れ合うことを大切にしてきたのはそういうことなのかな。
リフレッシュとか、はじめにいった"気分"を超えた潜在的なもののすべてが自然にはあるような気がする。
言語以外の記号をまるっと飲み込みこねくり回して生まれた認識を出力するのは
不可能というか、そもそも世界には究極的には自分しか存在していないので
同じものを感じてもらうのを目指すのは不可能なんやけどー
他者が現れたときに限りなく近くその認識を"感じて"もらいたいとおもったとき、
どうすんのがいちばんリッチなのかなあとか、
そういうことを考えている